前回からずいぶん時間が空いてしまいました。孤伏澤つたゐです。
気づいたら2025年になってる…! ちなみに、年末年始何をしていたかというと、鳥の仕事をしていました。唯一の休日だった一月四日は滋賀までいって、やっぱり鳥を見ていました。鳥三昧の日々でした。
今年もよろしくお願いします!
そんなこんなですが『ゆけ、この広い広い大通りを』が出た日々詩編集室から、2月に鳥のフォトエッセイ集が出ます。『翼ある日々へ』というタイトルで、鳥を見ることや写真を撮ることについての葛藤とかのエッセイと、撮りためた鳥写をまとめたものです。リソグラフ印刷で、紙面デザインとかは日々詩意匠室の岩崎美空さん(『ゆけ、この広い広い大通りを』の表紙も描いてくださっています)。どんな本になるのか、いまから楽しみです。
あと、来週末になってしまったのですが、1月19日に京都・みやこめっせで開催される文学フリマ京都にも参加します。小説の新刊はないのですが、『資本主義と権威主義の煽動に抗する同人誌』という無料配布冊子を作りましたので、みなさんどうぞもらいに来てください!執筆者は音無早矢さん、分相応さん、大滝のぐれさん、柳川麻衣さん、小松原織香さん、孤伏澤つたゐです。
送料+システム利用料を頂いてしまうのですが、BASEでもお求め頂けますので、イベントに行かないひとはこちらをご利用ください。
さて、今日はお知らせを先にしてしまいました。というのも、きのう『ロード・オブ・ザ・リング ローハンの戦い』という映画を見に行ってきて、その映画がすごくおもしろかったので、感想をお伝えしよう! と思ったのですが、……結末まではっきり描いてあるタイプのネタバレ……なので。
ここから先は、「ネタバレ大丈夫だよ!」ってかただけお進みください。まだ公開されて一週間くらいの映画なのに、こんなことをしてしまうなんて…でもめちゃくちゃおもしろかったです。おすすめです。
なりたかったのはアルウェンじゃない
『指輪物語』に出会ったのは、中学生のころだった。ちょうど三部作の映画が公開される直前。ハリー・ポッターが流行し、ダレン・シャンやライラの冒険、ネシャン・サーガ、が次々に刊行されファンタジーブームと呼ばれるような波が来ていたころだ。
そのころにはもうファンタジー小説を描く人間としてのある程度の自負はあった。いわゆるロー・ファンタジーは「結局はこの現実に帰ってこなければならない」から好きじゃなくて、ハイ・ファンタジーが好きだった。
ファンタジーブームのおかげで、『指輪物語』が店頭に並ぶようになった。一冊買って、――この物語の多くの読者がそうであるように、冒頭で一度挫折した。
とはいえ、ファンタジー書きとしての自負のある人間なので、わたしはへこたれなかった。馳夫が出るまで頑張って、そこから読み通すことができたし、ホビットも読んだりした。公開された『ロード・オブ・ザ・リング』で、脳内で想像していたそのままの映像が画面に現れたとき、生まれてはじめて映画館で泣いた。――いや、それは嘘だ。最初に映画館で泣いたのは、『ミュウツーの逆襲』だ。ちなみに、『指輪物語』はへこたれずに通読したが、『ナルニア国物語』はだめ。何度読んでも、二巻で挫折している。
『指輪物語』に影響を受けた書き手というのは、それはそれはたくさんいる。澁澤龍彦に影響を受けた作家くらいどこにでもいる、と言ってもいいのかもしれない。わたしは単純な人間なのでもちろん『指輪物語』にも影響を受けているし、なんなら『指輪物語』から澁澤龍彦までを一連の流れとして話し続けられる人間なのだが、わたしは『指輪物語』を読み、フロドとサムの冒険を追い、アラゴルンの戦いや、レゴラスとギムリの友情に胸を高鳴らせながら、どこかで、この中つ国には自分の居場所はないのだ、と思っていた。どれだけ壮大な物語が繰り広げられていようと、わたしは滅びの山に指輪を棄てにいく、旅の仲間にはなれないので。
そのもやっとした、到達しようのないもどかしさでもがいているわたしに手を差し伸べてくれたのは、中山星香『妖精国の騎士』と、あしべゆうほ『クリスタル☆ドラゴン』だった。どちらもいわゆる和製ファンタジーで、「少女漫画」の枠に入るのかも知れない。とくに中山星香『妖精国の騎士』は、『指輪物語』の影響を色濃く感じる作品だ。主人公のローゼリィという王女が、国を滅ぼされ、妖精王エルフェルムの君の養子となり、闇の公子と戦う。漫画単行本で四〇巻を超えるこの物語に、わたしは熱中した。ここには、『指輪物語』にはなかった、「わたし」がいた。「わたし」というのは、それは特定のキャラクターではない。「大きな物語を動かす少女(女性)」がいたのである。
もう多くの人が指摘していることだから、ここで重ねていう必要はないから手短にすませるが、『指輪物語』には、「大きな物語を動かす少女」はいない。わたしは、アルウェンになりたかったのではなかった。アラゴルンになりたかったのであり、フロドになりたかったのであり、サウロンになりたかった。『妖精国の騎士』であれば、わたしはローゼリィにもなれたし、シェンドラにもなれた。なんにだってなれたのである。
「大きな物語を動かす少女」の物語がほしい。――その切望は最終的にはわたしにさまざまなファンタジーを書かせることになるし、いまだってその灯火を胸に抱いて物語を書いているわけだが、ここに、『ローハンの戦い』という映画が公開された。
まだビルボ・バギンズの手元に指輪がなかったころ、ローハンの国を揺るがす戦があった。ヘルム王の娘ヘラの嫁ぎ先をめぐる事件が発端で、ヘラは幼なじみの青年ウルフと敵対することになる。ウルフはヘラに片思いをしていた。だが、求婚したその日の夜に、父はヘルム王との決闘にやぶれ、あまつさえ父は殺されてしまう。追放されたウルフは復讐を誓い、国を去る。
そうして戦がはじまるのである。戦に関しては、正直(銀英伝をめちゃくちゃ見まくっているタイミングだったので)「全員戦争が下手だろ!!」という感想が真っ先に出てしまうくらい全員戦争が下手だったのだが(「あ~、これ、ヤン・ウェンリーとラインハルトにくそみそにけなされること全部やってんじゃん……」という謎の心配)、この物語のどちらの陣営にもヤンやラインハルトがいなかったため、ウルフの側が優勢ではあるがそれなりに戦力は拮抗し(ほんとうにどちらもビックリするくらい戦争が下手なのであるが、ヘルム王がとにかく強すぎて、ウルフの優勢も揺るぎがちなのである。もうとにかくヘルム王がオフレッサーより強い。戦争の巧拙とかマジで些事)、物語のクライマックスはヘラとウルフの一騎打ちになる。
ヘルム王がとんでもなく強すぎるとはいえ、主人公はヘラである。物語はヘラを中心に展開していく。ヘラが求婚されることで物語が動き出し、ヘラが戦の気配を察知し、ヘラが活躍し、ヘラが民をまとめる。ヘラの隣にはつねに侍女で盾持つ乙女のオルウェンがいる。オルウェンはヘラとともに戦い、ヘラを助け、そして、道に迷うヘラを「親愛でもって」突き放す。いままでは、フロドや、サムや、トーリン、ガンダルフがしていたことを、少女であるヘラと、白髪になりつつあるオルウェンがする。
「わたしが待ち望んでいた物語だ」と思った。『妖精国の騎士』や『クリスタル☆ドラゴン』を読み、ファンタジーの小説を書きながら、わたしは、あの中つ国で、女が女として生きている、生きて「物語を動かしている」姿を見たかった。その願いが、ようやくここに顕現されたのだ、と。
物語は複雑だ。「女の物語」ではあっても、ヘラはただの少女ではない。王女であり、ローハンにとっては「最後にひとりのこってしまった(正統の血筋の)子」でもある。王たること、を希求され、そう振る舞うことを強制される。ヘラは戦いには勝利するし、王としての責務もまっとうする。これまでの物語であったなら、「卑しい血の入っている配下の子であるウルフの求婚を受ける/拒絶する」「戦い・勝利をおさめる」ことは、そのまま「成功譚」でもあっただろう。イヤ、物語はそのように「成功譚」として幕を閉じるのだ。
だが、ウルフというキャラクタはつねにヘラという「王女」の傲慢さを問い、「物語」からの恩寵を指摘する。ウルフにさらわれたヘラは、「あなたと結婚すればいいのか」と問い、「おまえらはいつだってそうだ」と言う。ヘルム王がウルフの父と決闘したとき、ヘラの長兄は「おもしろいものが見られる」と「王」の勝利を確信している。卑しい血が流れるウルフの一族を、配下として置きながら、見下し、結婚する/しないの選択肢を自分の手元に持ちつづけているのだ。
物語の中で、ウルフはつねに、「物語」を裏切りつづける。痛々しいまでに、定石から逃げ、定石を拒絶する。戦うべきところで戦わず、諭されるべきところで諭されない。わたしは先に(どちらも)「戦争が下手だ」と書いたが、ウルフはどれだけ有利な条件を整えようとも、戦争は上手になれないのだ。それは、物語の主流に立ち、ヘラが物語からうける「祝福」を、単純な成功譚におさめないために「そう」ある、とも言えるのかも。
ウルフには何もなかった。片思いの女に求婚すれば、身の程知らずと言われ、父を殺され、不遜さを罵られ、追放されるしかない。軍勢を集めても「王」ではないから、金で兵力を買うしかない。かれはなにも持たず、ヘラは全てを持っている。
ウルフは立ち向かわず、戦うとき、諭されるとき、退却しなければならないとき、決してそうしない。かれには、王女と、その王女が幼なじみの友人であると言いながら、決して対等にはなれなかった理不尽な不均衡と権力勾配がついてまわる。かれはそれと戦わねばならず、その戦いは、物語の定石/祝福の埒外の行動を起こすことでしか成し遂げることができない。決して王になることはできず、ヘラへの恋心を成就させることもできないかれは、ヘラと観客に「なぜそのような愚かな行動をするのか」という疑問を突きつけつづけることでしか、ヘラの持つ特権性をひっかくことができないのだ。
「だれとも結婚はしない」とヘラは宣言する(宣言できるし、実行できる)。「わたしがゴンドールに嫁ぐことがお父様の望みなのか」と問い、その父の死後、「王位」すら棄ててオルウェンと冒険の旅に出ることができる。破れた花嫁衣装を身につけて、ヘラはウルフに決闘を申し込むことができるのだ。もしウルフに卑しい血が流れていなければ、ヘラにはその求婚を受けるしかなかったかもしれない。ゴンドールかウルフか、という選択肢はあったとしても、政略的な結婚、家父長制の道具としての女性という立場からは逃れられなかったのかも知れない。強者の地位にあるからこそ握っていられる選択権に、ヘラは物語が終わるとき、まだそこまで自覚的ではいない。
「お姫様は女王になり(結婚して)賢く国を治めました」という義務から解放され、「わたしたちのほしかった物語」として「ガンダルフ」からの手紙を受け取り、旅に出ることができるヘラ。
ヘラがいつか、旅の途中で、花嫁衣装を着てウルフの前に立ち、かれの生命を絶ったことを悔やむ日がくることをわたしは夢想する。
そして、そんな夢想ができる物語を受け取ったことを、わたしは、あの日フロドやアラゴルンになれなかったことを思いながら、幸福だと思う。
『中つ国』と言う場所に生きる女性に、「その後」の余白を思うことができる、複雑で、大きな物語の祝福が降り注いだことを。